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2013年07月13日
平和の蚊帳
先日の新聞 (産経新聞 H25.6.21) で
「被爆の記憶伝える蚊帳 きょうから原爆資料館で展示」がありました。
昭和20年8月6日のあの原爆の日、日本製鋼所広島製作所に勤務していた
谷本太さん(90)が、いとこから借りていた麻の蚊帳を、がれきの中から
引きずり出し、焼け野原の被爆地の木に、ひもをくくりつけ、吊った
蚊帳。その蚊帳が、広島市の原爆資料館に展示されたというニュースです。
産経新聞社「原爆資料館に蚊帳」
原爆で、ぼろ布で胸を隠しているだけの女性や、歩けないお年寄りたち
約10人に中に入るよう促し、自分は蚊帳の外で寝ずの番をされた
谷本さんの涙ぐましい様子を、語ってくれる当時の蚊帳の展示です。
この記事を見て、私は学生時代の恩師・山田舜先生を思い出しました。
山田先生は今年、米寿(88)をお迎えになりますが、広島旧制高校の
2年時に広島市のご自宅で、被爆されました。
当時、山田先生は広島市の実家から、呉市の呉海軍工廠で人間魚雷の
「回天」の部品を削る作業に従事されていましたが、呉海軍工廠が
B29の1トン爆弾の絨毯爆撃にあい、命さながら原爆投下の前日に
ご自宅に戻られたということでした。
原爆投下の前日より発熱をし、翌8月6日も蚊帳の中でやすまれていた
山田先生はピカドンにあわれました。
爆心地から南東に2,5キロの位置のご自宅の窓ガラスは粉々に飛び散り
ましたが、「蚊帳のおかげで助かった」と、話されています。
その後、山田先生は東京帝国大学から福島大学経済学部の教授になれれ、
福島大学の学長も務められ、引退後の福島で、一昨年、被曝されました。
広島での被爆と、福島での被曝。
「被爆」と「被爆」の二度の「ヒバク」体験をもたれた山田先生は
ノーモアヒロシマ、ノーモアフクシマ と今もお元気で訴えられて
います。
→ http://anmin.com/yama-p/yama-syun1.pdf
<私の生きた戦後65年 広島原爆と福島原発>
山田ゼミの卒業生の私は、不思議なご縁で、現在、蚊帳の製造販売を
させて頂いております。
ここにまた、大きな使命があるのではないかとそんな思いで、
「原爆資料館に展示された蚊帳」の記事を読みました。
世界は平和で、みんなが安心・安眠できるように今年の後半戦も
頑張ります。 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
「被爆の記憶伝える蚊帳 きょうから原爆資料館で展示」がありました。
昭和20年8月6日のあの原爆の日、日本製鋼所広島製作所に勤務していた
谷本太さん(90)が、いとこから借りていた麻の蚊帳を、がれきの中から
引きずり出し、焼け野原の被爆地の木に、ひもをくくりつけ、吊った
蚊帳。その蚊帳が、広島市の原爆資料館に展示されたというニュースです。
産経新聞社「原爆資料館に蚊帳」
原爆で、ぼろ布で胸を隠しているだけの女性や、歩けないお年寄りたち
約10人に中に入るよう促し、自分は蚊帳の外で寝ずの番をされた
谷本さんの涙ぐましい様子を、語ってくれる当時の蚊帳の展示です。
この記事を見て、私は学生時代の恩師・山田舜先生を思い出しました。
山田先生は今年、米寿(88)をお迎えになりますが、広島旧制高校の
2年時に広島市のご自宅で、被爆されました。
当時、山田先生は広島市の実家から、呉市の呉海軍工廠で人間魚雷の
「回天」の部品を削る作業に従事されていましたが、呉海軍工廠が
B29の1トン爆弾の絨毯爆撃にあい、命さながら原爆投下の前日に
ご自宅に戻られたということでした。
原爆投下の前日より発熱をし、翌8月6日も蚊帳の中でやすまれていた
山田先生はピカドンにあわれました。
爆心地から南東に2,5キロの位置のご自宅の窓ガラスは粉々に飛び散り
ましたが、「蚊帳のおかげで助かった」と、話されています。
その後、山田先生は東京帝国大学から福島大学経済学部の教授になれれ、
福島大学の学長も務められ、引退後の福島で、一昨年、被曝されました。
広島での被爆と、福島での被曝。
「被爆」と「被爆」の二度の「ヒバク」体験をもたれた山田先生は
ノーモアヒロシマ、ノーモアフクシマ と今もお元気で訴えられて
います。
→ http://anmin.com/yama-p/yama-syun1.pdf
<私の生きた戦後65年 広島原爆と福島原発>
山田ゼミの卒業生の私は、不思議なご縁で、現在、蚊帳の製造販売を
させて頂いております。
ここにまた、大きな使命があるのではないかとそんな思いで、
「原爆資料館に展示された蚊帳」の記事を読みました。
世界は平和で、みんなが安心・安眠できるように今年の後半戦も
頑張ります。 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 蚊帳の博物館 at 19:39│Comments(0)